ヴィゴのお誕生日

    2010.10.20 Wednesday| 12:25 |
JUGEMテーマ:映画
生身の人間である以上、齢を重ねればそれなりに老いていくのが当然のはずなのに、まるで年齢を置き忘れたごとくにいつまでも若々しく、単に外見の問題ではなく人の在り様としての美しさや深みを増していく貴方に魅了されています。
ヴィゴ、お誕生日おめでとう。
心からのお祝いの言葉を、心ばかりの気持ちを、貴方に贈ります。

二度目の「ザ・ロード」観賞

    2010.07.15 Thursday| 23:55 |
二週間のご無沙汰でした。
サッカーワールドカップ南アフリカ大会の熱狂も過ぎ去り、少々燃え尽き症候群なわたくしです(って、お前は闘莉王か!)。
一ヶ月に亘る開催期間、就寝時間はメッチャ遅くなるは、当然ながら、睡眠時間はメチャクチャ減るはで、すっかりバイオリズムが狂ってしまっておりました。要するに時差ボケみたいなもんなんでしょうねえ。W杯閉幕後、一週間も経ってようやく身体のリズムが戻ってきたような、こないような。
映画を観るペースはまだ元通りとは言えないのだけれども、映画館にはここ二週間で三度ほど出向きましたよ。
私にしては、まあまあ多いほうかな。好き嫌い多いし、役者本位主義だから、好き俳優が出てないと、かなりの話題作でも観に行かないしね(アバターとか、アバターとか、アバターとか)

先ずは先週の水曜日、7月7日にようやく、「ザ・ロード」を再見してきました。
試写会では観たものの、映画専門の会場では無かったので非常灯の明かりが気になるし、音響もあまり良くなかったし。そして何よりも、観客の皆さん全てが、この映画を是非とも観たい!と思って駆けつけた人ばかりとは言えないことによる、マナーの悪さも気になるしで。
早く映画館のスクリーンで観たいと切望していたのですが、どうにもスケジュールを組めず、ツイッターでの皆様の「ザ・ロード観ました!」ツイートを指を咥えて眺めること暫し。
仕事で都内に出る機会を得て、ようやくシャンテに駆けつけたような次第。

仕事の前に観なきゃならないスケジュールだったので、観賞に臨んだのは初回上映9:20から。
この日の前夜はオランダvsウルグアイ戦だったのだが、涙を飲んで諦めて(ヴィゴ>フォルランだから当然と言えば当然)、0時に就寝。
朝が半端無く弱い私が6時半に起きて、仕度して、大嫌いな満員電車に揺られてまでしたのは、ひたすらにヴィゴへの愛ゆえの所業と思ってやってくんな。

電車が若干遅れて、シャンテに到着したのが9:10頃でした。
早速チケットを購入すべく窓口に並ぶと、後ろには母娘らしいお二人連れ。レディースデイなので、映画のハシゴをするおつもりらしい。聞き耳頭巾をしていたわけじゃないけど、すぐ後ろにいらっしゃるからね、会話が耳に入っちゃうのだ。

お母上らしき方: 「先ずどれを観るの?こっち?ロードって言うほう?」
娘さんらしき方: 「ロードにしようかな。ネットで観たんだけど、親子モノでね、すごく良いらしいよ」
わたくし: 『すっごく良い映画ですから!是非こちらからご覧ください!!』←もちろん、心の声。

思わず商売人根性を出して、揉み手してお薦めしてしまうところでした(ちょっと嘘)。
さて、入場です。200人超のキャパに観客は3割程度。レディースデイだから、もうちょっと賑わっているかと思ったので、若干肩透かし。
地元隣接のシネコンとは違って、東京のど真ん中は日比谷、そこで午前中9時過ぎからの上映回ってことを考えれば、少ないとは言えないかも。むしろ夕方、仕事帰りに立ち寄るお客さんが多いだろうと勝手に予想してみたりして。
観客は女性客が殆どでしたが、年配の男性客もチラホラ見かけました。定年退職して悠々自適な生活をしている映画マニア、と言った雰囲気。そう言えば、私の前にチケットを買っていた人も60代くらいの男性だったな。

映画自体の感想は、先日の試写会の記事をご参照いただけると幸い。
◆「ザ・ロード」〜試写会ご報告と感想

以前に書いた、原作本レビューはこちら。
◆容赦無く残酷で途轍もなく美しい〜「ザ・ロード」


この後、ネタバレあり。ご注意!


映画のラスト、少年が亡くなった父親に最後の別れをするシーン。試写会の時には気付かなかったのだけれども、父親の毛布と自分の毛布を取替えっこしておりました。
横たわるパパには自分が使っていたベージュ色の毛布を掛け、自分はパパのグレーの毛布を羽織るのだ。
この環境の中で育ったこの少年に、形見という概念があるかどうかは判らないけれども、自分のぬくもりを父親に残し、父親の匂いや感触を少しでも自分が覚えていようと考えた故の行動であることは間違い無いと思う。

映画終りで泣いている観客も見かけましたが、特筆すべきは、エンディングの途中で席を立つ人が一人も居なかったことです。
エンディングの後にオマケ映像があるよ!と宣言されている映画ですら、タイトルロールが始まると同時に立ちあがる人が多い昨今、これはとっても稀有なことだと思う。それは感動であったり、打ちのめされる想いだったり、単純に誰も立たないから立ちにくいと考えた人も居たかもだが。
試写会の際には観客のおしゃべりと席を立つ音で、ろくろく聞くことも出来なかったサウンド・スケープがちゃんと聞けて満足でした。
鳥のさえずり、犬の鳴き声、父親らしき声や子供のはしゃぐ声。
それが過ぎ去った美しい日々の思い出なのか、やがてくる未来なのかは判然としないのだが、それは多分、観客が自由に考え、想像すべきものなのでしょう。

前日夜は普段より3時間以上も早く寝床に着いたのだけれども、やっぱり案の定、寝付けるわけも無く、熟睡も出来ずにかなり寝不足状態での観賞。
もしかして眠くなっちゃうかも…とほんのちょっぴり心配していたのだけれども(ちょっぴり、だからね!)、結果的には全く無用の心配でしたね。
眠気なんてチラとも差さない。ヴィゴとコディの魂のこもった演技に釘付けな二時間でした。

「ザ・ロード」〜試写会ご報告と感想

    2010.06.19 Saturday| 18:35 |
6月17日木曜日は、待ちに待った「ザ・ロード」の試写会でした。
折悪しく仕事により多忙を極めていたのですが、各方面に無理を言ってお願いして、試写会場に駆けつけることができました。
ええ、そうなんです。ツイッターでつぶやいたっきり、ブログでお知らせするのをうっかり失念していたのですが、「イースタン・プロミス」、「アラトリステ」に引き続き、今回の「ザ・ロード」でも招待状を引き当てることが出来ました!
日頃はとことんクジ運が無く、前回記事の「アイアンマン2」ジャパン・プレミアもalexさんのご好意で同行させていただいた次第なのですが、ヴィゴ主演作品に限っては試写会三連勝!
クジ運は無いけど、どうやらヴィゴ運はちょっとだけあるらしい。果報者なわたくしです。
無論、応募ハガキも沢山(と言っても10枚くらい)出しましたよ。ネットで応募するよりも、ハガキのほうが当選しやすいような気がします。
まあ、当たり前と言えば当たり前。費用も手間も掛からないネット応募より、わざわざハガキを買って、あて先と応募要項を書いて、投函してと云う手間の掛かるほうが競争率は低いに決まってる。
ちなみに、ハガキには応募要項の他に、自分が如何にヴィゴのファンであるか、この映画もどれだけ公開を待ち望んでいたか、試写会に当たっても当たらなくてもいずれにせよ公開後は観に行くが、出来れば試写を観てブログに記事を書きたい、などといった内容をチマチマと書き連ねました。
ヴィゴ愛ゆえか当選狙いの姑息な手段かは、自分でも首を捻るところ。うーん、両方と云うことにしといてください。
実際問題として、こんな手法が通用しているのかどうかは判りませんが、とりあえず三連勝なので良しとしよう。

さて今回の試写会、会場は中野にある「なかのZERO大ホール」でした。
大賑わいの商店街やカオスな魅力の中野ブロードウェイがある北口とは反対側、南口から徒歩8分ほどの場所にあります。
18時半会場、19時開演とのことだったので、18時頃に到着。
「アラトリステ」の時はヴィゴの来日が噂になっていたので張り切って16時には現地到着していたのですが、今回はそんなサプライズは無さそうだし(多分撮影中だろうし、W杯開催中でもあるし)、ギリギリまで仕事を片付けてから出掛けたので、そのくらいの時間になっちゃいました。
既に会場の外にまで行列が出来ておりました。建物横の狭いスペース、今日は晴れてるからいいけど、雨降りだったら並ぶの大変そう、などと思いながら並ぶこと暫し。
仕事終りで来る人も多いだろうから、18時を過ぎた頃から急激に混み出しました。私たちの背後の列はドンドン長くなっていきます。行列整理の警備員さんは居るんだけど、もしかしてこの一列じゃ並びきれないんじゃない?と思い始めた頃、予定より早い18時20分頃に開場となりました。

ネットで調べたところ、なかのZERO大ホールは全部で1292席。まだ新しいのか綺麗で、二階席もある立派なホールです。
ここで二日連続で試写会をやるとは、なかなか力が入っているではないか! しかし、一般公開後の関東での上映はシャンテシネだけなんだよね…力の入れどころのバランスが悪くないか?…いや、まあ、配給会社さんにもいろいろと思惑があるのでしょう。
試写会ご招待いただいたんだから、ケチつけてる場合じゃない。

そして、19時。いよいよ開演です。
司会者が壇上に上がることもなく、内心で恐れていた芸能人が登場することもなく、淡々としたアナウンスの後、上映が始まりました。
…よーく考えてみれば、あくまでも試写会であってプレミアじゃないんだから、芸能人なんて来る訳も無いのにね。どうもナーバスになっていたらしい。

以下、映画「ザ・ロード」の感想になります。
一般公開前と云うことも考慮し、ネタバレは出来るだけ避けたいところですが、ネタバレ一切無しでは記事が書けそうにない。
原作も既に翻訳本が出版されておりますので、ある程度ネタバレが含まれますこと、ご了承ください。



「ザ・ロード」(2009年、アメリカ)

理由の定かでない災害によって文明を失ってから10年以上経つ世界。
太陽は見えず、寒冷化が進み、動物も植物も次々と死滅。僅かに生き残った人間も保存食を見つけるしか生き延びる手立てはない。そうしなければ、餓死するか自殺するか、さもなくば、理性を失った人間の餌食になるかだ。
そんな荒廃した道なき道を、父と子は、寒さから逃れるため、南を目指して歩き続ける。
子は父を信じ、父は子の未来を願いながら…。(goo映画より引用)



予想通り、いや、期待以上、想像以上に素晴らしい作品でした。
俳優の演技、衣装、小道具、美術が実にリアル、映像の全てに嘘臭さが微塵も感じられないのが凄いです。
核の雲に覆われ寒冷化の進む世界。荒野、立ち枯れて倒壊を待つだけの木々、廃墟、散乱する遺体や遺骨、生命の欠片すら見いだせない死に果てた海。
灰色の雲に覆われた空の下、そぼ降る冷たい雨に打たれて震える親子の姿には、観ているこちらも身震いをしてしまうほど。
残酷なまでにリアルな映像、凍てつく寒さや濡れる不快感、腐敗や汚れによる悪臭がまるで現実のものであるかのように観客に迫ってきます。

よくある終末映画のような覇権を争う権力闘争も無ければ、爆弾がどんじゃか爆発したり、どうやって銃弾を補充するのか首を捻ってしまう派手派手しい銃撃シーンも出てきません。未知のウィルスや宇宙生物に脅かされたりもしません。
この映画で描かれる恐怖や暴力は、ただ生き延びるために必死な人間たちによる、容赦の無い命のやりとりです。奪い合い殺し合う人間のエゴと、人間を食物と見做して狩ろうとする人食いたちの恐ろしさ。
映像表現として巧みだなあと思ったのは、食料として備蓄されている人々やそれに伴うカニバリズム的表現、殺されたり自殺した人々の遺体や晒された人骨などの描き方です。
凡庸な映画だったなら、喰われるために切り刻まれた人体やらミイラ化した肉体などを強調し、時にはアップで時にはスロー映像で映し出したりしそうなものですが、「ザ・ロード」ではそうした表現方法を取っていません。
原作にある以上、そうしたシーンは何度か出てくるのですが、カメラを流しながら映すような手法なので、画面上ではほんの少ししか映し出されないのです。
私見ですが、これはもしかすると、「人間の目線」を意識した映像なのかなと思ったりしました。
例えば、真実怖いものやグロテスクなものを見た場合、一瞬凝視してしまった後、パッと眼を逸らすまたは眼を瞑る、そういう行動を取ってしまうのが人間として自然な態度だと思うのですね。
「ザ・ロード」の映像はそんな感じなのです。
野に晒された頭蓋骨やベッドに横たわる遺体をおずおずと(カメラが)遠目から眺め、喰われるために飼われている人間を見てしまった時は、眼に入れたくないとばかりに必死で(カメラの)目線が逸らされる。
しかし、そうして少ししか映し出されないことによって想像力が喚起され、恐怖感がじわじわと高まっていくのです。お化け屋敷のような作り物的な恐怖とは違う、映像の中で彼等がリアルに体感している真の恐怖を、観客も同時体験させられている、そんな気すらしました。

ホラー映画やB級映画によくあるように、カニバリズムや血塗れの殺戮シーンなどセンセーショナルな映像を沢山盛り込めば、話題にもなるし下世話な興味を引くことは間違いないでしょう。
もしかすると、米国での興行収入も上がっただろうし、上映館数も増えたかもしれない。
しかし、そうした安易な手法を避け、原作のイメージを損なうことなく淡々と恐怖を描いたことが、この映画の品格の高さに繋がっているのではないかしら。
万が一にもそうした表現をしようとしたら、原作者からNGが出たであろうことは想像に難くないし、主演であるヴィゴも拒否反応を示したと思う。しかし、監督は映画の興行的成功をも考えねばならないはず。
まことにもって嘆かわしいことではありますが、映画のヒットを狙う上では、センセーショナルな映像を全面に押し出したほうが話題になるし、興味本位の観客が増えるのは間違いない。
実際に米国の観客の中には、カニバリズム表現に興味を持って観に行ったホラー映画ファンもいたと聞きました。

他にも例えば、判りやすくて一般受けするハッピーエンドで終わらせるというやり方もあったかもしれないのですが、この映画はそんな安直な結末を拒否しています。
親子がボロボロになりながらも、「善き者」がひっそりと群れ集っている集落に辿り着くとか(他の映画で既にありましたが)、スーパーマンのように頑健で強力な父親が息子を連れて、希望に向かって歩み続けるとか。
でも、それは「ザ・ロード」ではない。全く、違う作品になってしまう。悲しいけれど、辛いけれど、この映画はああしたラストシーンでなければいけないのです。
ジョン・ヒルコート監督は、原作の持つ残酷さと高潔さを損なうことなく映像化する意志を貫いた。
そのセンスと感覚、志の高さに拍手を贈りたい。


印象に残ったシーンをいくつか。
先ずは、半壊した教会で親子が抱擁するシーンです。公式サイトで壁紙配布もされてますので、ご覧になった方も多いかと。
画像で見た時も、「なんて美しいシーンなんだろう…!」と思いましたが、物語の流れの中で観るとその感動は一際でした。使い古された表現ですが、まさに一枚の絵画、それも宗教画のように美しく切なく感動的でした。



もう一つは、コガネムシのエピソード。南を目指して、ひたすらに歩き続ける親子。ある時息子は、一匹の虫を見つけます。「それはコガネムシだ」と教える父親。
多分、世界の崩壊後に生まれたこの少年は、虫はおろか生きている生物をほとんど眼にしたことが無いのではないかしら。生物のほとんどが、絶滅するか人間によって喰いつくされてしまった世界。驚きと共に見つめる親子の前から、コガネムシは飛び立っていきます。
何故、虫が生存してたんだ?と云う疑問が生じそうですが、これはそれほど無理な設定ではない。
ある種の昆虫は風や海流に乗って長い距離を移動することで知られています。有名なアサギマダラと云う蝶は2000kmもの移動記録があるし、カナダからメキシコまで3000kmを移動する蝶もいるとか。
この映画において、親子が歩き続けている北米大陸では生命の欠片すら見いだせなくても、もっと南の地域、またはどこか洋上の孤島なら生物が生き延びている可能性だってあるでしょう。
そして、少年が見つけた虫がコガネムシであると云う点。これは重要な隠喩のような気がします。
コガネムシと言えば、スカラベです。古代エジプトでは太陽神と同一視され、復活と再生の象徴とされた聖なる昆虫です。
復活と再生。自分たちを「火を運ぶ者」として位置づけた親子にとって、それは夢であり希望。
旅する虫として一般的な蝶類ではなく、敢えて聖なる虫コガネムシを登場させているところに、このシーンが単なる映画のワンシーンではなく、意図的で寓話的なエピソードであることが伺えました。
ところでこのシーン、原作にあったかなあ? 
私の記憶には無いのだが、暫く読み返してないので断定出来ません。一般公開前に読み返そうと思っているので、その際、確認することにしよう。


さーて、お待たせしました。出演俳優についてです。
主演の父親(原作ではMAN=男、ですね)は、ヴィゴ・モーテンセン。
以前に原作のレビューにも書きましたが、ヴィゴの人となりを少しでも知っていたら、「ザ・ロード」はもしかしてヴィゴをイメージモデルに書いた小説なのでは?と考えてしまうのではないかしら。
それくらい、この父親像はヴィゴのイメージにぴったり。活字の段階でそう感じたくらいだから、映像化されたらどれほどハマるんだろうとアレコレ想像していたのですが…現実は創造の遥か上に存在しました。
上の記述で、映像に嘘っぽさがまるで無いと書きましたが、ヴィゴの演技がこれまた凄まじいまでにリアリティに溢れています。
なんのかの言っても所詮は作り物である「映画」ではなく、どこかのパラレルワールド、滅亡した世界で息子を守り必死で生き延びようとしている男の姿をドキュメントフィルムとして収めたんじゃないか? そんな錯覚を引き起こさせられるほどに、リアルで鬼気迫る演技なのです。

実際に映画を観る前のことですが、どこかの映画サイトが「アラゴルンの片鱗すら見えない」とか書いているのを読みました。少しでもヴィゴを知っていたらそんなの当たり前のこと。だって、「ザ・ロード」でヴィゴが演じているのは、アラゴルンじゃないんだから。
アラゴルンを演じている時、撮影以外の時間帯にまでヴィゴとアラゴルンが一体化していたことは有名な話ですし、その後に出演した映画でも、それぞれの役柄にとてつもないほどに没頭し、演技を超えてその人物に成りきってしまうのが俳優ヴィゴ・モーテンセンですからして。
個人としてのヴィゴを消し去り、役柄のその人物に成りきるのがヴィゴの俳優術だと私は思っていたのですが、ところが、この映画では少しだけ違いました。
画面の中の父親の向こう側に、ヴィゴの姿が透けてくるような気がしたのです。もちろんそれは、ヴィゴが役に成りきってないとか、ましてや演技が拙いという訳では全くありません。そうではなくて、この作品のこの父親は、ある意味、ヴィゴ自身の姿なのではないかと思うのです。
この父親には名前はありません。原作でも映画でも固有名詞は一切出てこないのです。これはもちろん、原作者に確固たる目的があってのことだと思う。
登場人物に名前を付ければ、必然的にパーソナルイメージが生じます。例えば何国人であるとか、北欧系だったりアイルランド系だったりユダヤ系だったりとかが、名前からは推測できます。出身地や人種が推測できれば容貌も推測できるし、宗教や生活環境が推測できれば、ある程度の人となりも推測可能になる。
原作では、この父親の年齢や容貌、人種を推測させる描写はほとんどありません。
この男は一つの作品の中における一人の登場人物であると同時に、人類の普遍的な、斯くあるべき父親の姿、その象徴なのではないか、私はそんな風に考えました。
そしてヴィゴは、世界的有名俳優であると同時に、一人の生活者であり父親であることを大切にしている人だと思う。ヴィゴもまた、「ザ・ロード」のMANとなんら変わりは無い、息子を大切に思う一人の父親なのです。
それ故に、この役柄を演じているヴィゴには、別の役柄、普段の演技では一切見せることのない、素のヴィゴ・モーテンセンの姿がチラつくのではないかしら。
むしろ、それは必然であり当然であり、それが故にこの役柄を演じるヴィゴの演技は壮絶で、素晴らしいのではないかと思うのです。

そしてまた、ヴィゴが絶賛した子役コディ君の演技がまた凄い。あまりにもナチュラルすぎて、最早演技には見えないほどに凄い。
個人的偏見ですが、私は子役の演技にはどうしても「やらされてる感」があるように感じ、達者であればあるほど苦手だったりします。表現が悪くて申し訳無いのだけれども、猿回しの猿を見ているような物悲しさを抱いてしまう。もしくは、小生意気な子供の「僕って上手でしょ?」と鼻高々な姿を想像して、気が萎えてしまう。
ところが、撮影時11歳だったはずのコディ・スミット=マクフィーには、そうした臭みが全く感じられないのです。
その唇から飛び出すのは台詞ではなく、終末の世を父と二人きり、必死で生きている少年の言葉。
その涙はトレーニングの成果でもましてや目薬のお陰でもなく、自然な感情が生んだ真の哀しみ。
掛け値無しで、彼の演技はそう見える。表情を大げさに変えるわけでも無いのに、目線や口の開き、微細な頬の震えが少年の心情を的確に表現した、コディ君。
まさに、恐るべし11歳。
また、いつか、ヴィゴとの共演があるといいなあ。ヴィゴもきっと、そう願っていることでしょう。
蛇足ですが、映画の中の少年は、お母さん似でしたねえ。素のコディ君とシャーリーズ・セロンが似てるとは全く思わないのですが、映像の中では本当に良く似ています。
母の残したニット帽を少年がかぶっている、と云うこともあるだろうけれども、伏目がちにした目元や、少し開き気味になった時のふっくらとした口元などそっくり。カメラや照明の位置、表情の作り方などを工夫したのかもしれないけど、思ってもみなかったので少々驚きました。

妻役は、自ら望んでこの役を志願したと伝えられるシャーリーズ・セロン。元モデルの経歴を持つ美人女優として有名ですが、アカデミー主演女優賞を受賞した名女優でもあります。
彼女の名声に配慮し出番を増やしたと噂されていたことから、映画の仕上がりに悪影響が無いか危惧していたのですが、幸いなことにそれは杞憂に終わりました。
原作では妻が登場するシーンはごく少なく、男(父親)が去っていった妻を回想する4ページほどのシーンのみです。
映画ではそのシーンも丁寧に描いておりますが、その他にも何度か、世界が崩壊する以前の妻との生活が、フラッシュバックのように挿入されます。
それは、冷え切った灰色の現実の中で、男が見る昔の夢。咲き乱れる草花、降り注ぐ陽光、色彩に溢れた平和で穏やかな世界、愛する妻と微笑みあう時間。哀しいほどに美しい思い出。
思い出が美しければ美しいほど、現実の過酷さがより一層強調されます。
妻との回想シーンが頻繁に出てくることだけが原作とのほとんど唯一の相違点なのですが、映像表現としてはむしろ成功していると思いました。



世界の崩壊後に生まれ、こうした世界しか知らない息子に、父は教え諭します。
自分たちは「善き者」であること。「心に灯る火を運ぶ者」であり続けなければならないこと。
物心がついて以来、飢餓と恐怖にさらされ続けてきたはずなのに、他人を思いやる心、他人を信じようとする心を損なわず成長した、まさに奇跡のような少年。
復活と再生の暗喩。
父親の死。

ラストシーンで、少年は「善き者」(映画の役名はVeteran=習熟者または退役軍人の意もある)と出会います。
男は、子供を二人とその母親、そして犬を連れていました。
実に皮肉な遭遇だと思いました。
物語の途中、少年は生まれて初めて、自分以外の子供を見かけます。その子と会いたい、話したいと訴える少年に父親は「子供なんて居るはずが無い」と叱り、引き立てるようにしてその場を去るのです。
父親にしてみれば、自分たち以外の他人は全て敵です。少年には「善き者を探すんだ」と語っても、本音としてはそんな人間がこの世に残っていることなど、信じてはいないのでしょう。
地下の隠れ場所に潜んでいる時、地上を歩き回る音を聞いた少年は「犬だ!」と喜びますが、父親は「もし犬だとしたら、連れている人間がいるはずだ」と危惧し、沢山の食物と隠れ場所を放棄し、逃げる道を選択します。
父の死後、少年が出会った善き者たちは、二人をずっと探し、追っていたのだと告げます。無論、それは、二人と合流し保護するためだったに違いありません。
そう、少年が見かけたもう一人の子供も、足音を聞いた犬も、その存在は現実だったのです。
例え、父子と善き者たちが早くに出会えていたとしても、傷つき病んだ父親の死は遅かれ早かれだったことでしょう。しかし、最愛にして生きる目的そのものであった息子が、自分の死後も一人ぼっちにはならないと知っていたら。死の瞬間、父親は少しは心穏やかだったのではないでしょうか。
ここでもこの物語は、容赦なく残酷です。
善き者たちと出会いが未来への希望に繋がり映画が終わる…といった、都合の良い夢物語には決して終わらせない。
どこまでも現実的で、覚めることの無い悪夢。それが「ザ・ロード」の世界の一つの真実ですが、その絶望的な世界の先には、朧な、本当に幽かではあるけれども光が見え隠れしている。
映画のラストシーンで確かにそう信じられたことで、私はこの作品が傑作であると断定させていただきます。

原作世界を忠実に再現、再構成しているにも関わらず、単なる映像化では終わっていないのが実に素晴らしい。一つの映画作品として、世界を完全に創りあげています。
繰り返しますが、まさに傑作。それ以外に言葉が出てこない。
出来るだけ沢山の方に、スクリーンでこの作品を観て欲しい。
涙脆い方は、ハンカチとサングラス(腫れた眼を隠すためにね!)も必携ですよん。


※以前、「The Road」日本語翻訳版の感想記事を書いております。ご興味ある方は、どうぞ!
 
【 容赦無く残酷で途轍もなく美しい〜「ザ・ロード」】

ヴィゴ主演「ザ・ロード」、公式サイト発動!

    2010.04.22 Thursday| 23:44 |
内容および取扱い俳優が違うので、記事を分けました。
こちらは、グッドニュースです!
ヴィゴ主演「The Road」の日本公式サイトが、遂にオープンしました。

映画「ザ・ロード」公式サイト 今夏TOHOシネマズ シャンテ他全国順次ロードショー


公式Twitterもオープン。現在地が「ひたすら南へ移動中」ってなっているのに、ニヤリ。
映画「ザ・ロード」公式Twitter

最新情報をつぶやいてくれるそうなので、ヴィゴファン、映画ファンはこれを期にTwitterデビューするのもいいかも。
見るだけなら加入してなくても見られるけど、アカウントを取って「ザ・ロード」Twitterをフォロー(ブックマークみたいなもん…ちょっと、いや、だいぶ違うけど)しておけば、情報を逃さずキャッチ出来ます。

夏って何時?!〜「The Road」日本公開決定!

    2010.04.12 Monday| 23:13 |
先月末の「イースタン・プロミス2」の製作が決定したらしい、いや、決定とまではいかなくてプロデューサーがアドバルーンを上げて様子見しているらしい、と云うニュースが流れて以来、どうにも落ち着かず居ても立っても居られない日々を送っていた管理人です。こんばんは。

意味も無くオタオタしていた私の耳に、引き続き今度は「The Road」の日本公開がいよいよ決定したらしいとのニュースが飛び込んで来ました。

先週くらいに映画関連サイトのtwitterで呟かれていたのですが、allcinemaにも、初公開年月 2010/夏と表示されたからには、業界的(?)に決定と考えて間違い無いのでしょう。
「The Road」翻訳本が早川書房から出版された当時、新聞や雑誌の書評ではかなり取り上げられていたし、翻訳本としてはそこそこ売れ行きも良かったようだしで、多分、映画の日本公開もあるだろう、いやあるに違いない、きっとある!と信じて幾星霜(涙)…ってほどでもないが。外国俳優のファンやってると、やたらめったら気が長くなるよね。
とにもかくにもようやく、「man」(この物語には名前が出てこないのだ)であるヴィゴに会えます。

夏っていつかな? 6月は夏かなあ、初夏は夏には入らないのかなあ。7月か8月か、夏休み映画にはあんまり相応しく無い映画な気がするから、9月ごろまでずれ込むか。
いずれにせよ、ウルトラ楽しみ! 髭だろうが汚れてようが、そこはそれヴィゴだからね!! きっと、〇〇だったり、××だったりするに違いない(自粛)。

ヴィゴ主演「Good」〜妄想レビュー

    2009.10.30 Friday| 23:45 |
既に10日も前のことになっちゃいましたが、10月20日のヴィゴ51回目のお誕生日を(勝手に)記念し、到着したばかりのヴィゴ主演作「Good」のDVDを観ました。
日本では、上映はおろかDVD発売の噂も全く出てこないこの作品。情報も少なく、実のところ、私も内容をあんまり把握しておりませんで。映像がかなり出回っていたので、1930年代から40年代のオールドファッションスーツに身を包んだヴィゴの麗しさにウハウハするばかり、そればっかり(ええ、基本ミーハーなんです)。
事前に知っていた情報としては、舞台がナチス政権下のドイツだということ。ヴィゴ演じる大学教授ジョン・ハルダーがナチスに利用されるということ。ユダヤ人である友人を裏切ってしまうということ。この3点のみ。
英語のヒアリングなんぞ出来るわけも無いので英語字幕が頼りなんですが、このところ昼間に眼と神経を酷使し過ぎている所為もあって、字幕を読み取る根性が無い。
そもそも、じゃんじゃか流れていく字幕をそのまま読み取る英語力は全く持ち合わせてないので、海外版DVDを観る時は映像を一時停止させては電子辞書さんのお世話になるを繰り返すんですが…現時点で、それだけの時間的余裕を捻り出せないんですよー(泣)。だって、この方法だと普通に観るのの三倍の時間が掛かるんだもん。
簡単に言っちゃえば、字幕を読み取る能力と根性と時間が無いということなんですが(早よ、そう言え)。でまあ、取り急ぎ、台詞の内容を気にせず、ざざっと映像のみを鑑賞したのでした。
本当は先週末か今週初めあたりには字幕検証しつつの再鑑賞をしようと思っていたんですが…まだだったりする。
ファンを名乗っておきながらこの不甲斐ない私を皆さん叱ってやってください。って、実際に叱られたら凹むのでご容赦(←褒めれば伸びる、叩かれると萎む性質)。

しかし! 「Good」の内容、麗しのハルダー教授がどんなであるか少しでも知りたいと思う方、海外版を買おうかどうか悩んでる方がきっと居るに違い無い。そうした方々は、例えほんの少しの情報でも求めているに違いない思い立ったわたくし。だって、私がそうだもん。情報プリーズ!
でまあ、ちょっとだけでも皆々様のお役に立てればと、ストーリー解説もどき&感想を書いてみようかと。
本音としては、既に「Good」鑑賞済みできちんと英語字幕を検証済みの方がいらしたら、是非ともお教えを請いたい!という思惑ありき、なんですが。言ってみれば、釣り用語で言うところのコマセ(=撒き餌)?
撒き餌とか書くと感じ悪いかもだが、大恥をかくのを合点承知で身体を張ったコマセなので、ご理解いただけると幸い。

注意! 
以下に記される内容は、ヒアリングの全く出来ない英語音痴が、字幕すらろくに読まずに映像だけで勝手に解釈した内容となります。
とんでもない間違いや致命的なまでの解釈違いのある可能性が大なので、お読みになる方は、目一杯、眉に唾を付けてからご高覧ください。
また、ネタバレは全く考慮しておりません。
今後鑑賞予定の方で、ネタバレを嫌う方はお読みにならないほうがよろしいかと思います。大勘違いをしていてネタバレでもなんでもなかった、と云う可能性もありますが、一応はご注意あれ。

と云うことで、「Good」妄想レビューの始まり、始まりです。

物語は第二次世界大戦真っ只中の1942年、ナチス統治下のドイツで始まります。
軍部に呼び出されたジョン・ハルダー(ヴィゴ)は、何事かと怯えながら軍部のオフィスへと出頭。
かなり偉いさんに呼び出されたらしく、おどおどビクビクしまくってます。受付の女性に、「何の用事で呼び出されたんだろう?」と縋りつくような態度で聞いてはみるものの、「私には判りかねます」なんて言われちゃったりして。
いきなりへたれてて、かなり可愛いです、ハルダー教授。
いざ、偉いさんとの面談。お約束のご挨拶「ハイル!ヒットラー!」をやるんだけど、これがねえ、見事なまでに様になって無い。「ハイル!」をやりなれてないんだな、本当はとーってもやりたくないんだなってのがバレバレ…と伝わってくる演技をヴィゴがしております。
えーと、このあたりで早くも字幕検証をすっぱり諦めてしまいました(ヲイ)。撃沈
だって、元は舞台劇だというだけあって台詞は多いし、しかもテンポが速くって、とてもじゃないけど追いきれない。でまあ、上記の通り、取り敢えずはヴィゴ鑑賞に徹することにいたしましたのさ。
それにしても教授姿のヴィゴ、本当に眼の保養です。ネット上に出回っている画像は沢山見ておりましたが、動いて喋っているハルダー教授はこれまた格別です。
この時代のスーツって全体にラインがゆったりめなんだけど、かと言って、バブルの頃のイタリアンスーツとも全然違う柔らかな質感が特徴的。そんなオールドファッションのスーツが、非常に良く似合ってます。
イ−スタン・プロミスでの、あの硬質なイメージのスーツ姿も良いけど、こういう柔らかい雰囲気も良いではないか、良いではないか(そこのわたし!涎を垂らさない!)。
どうやらこの段階では既にナチ党員らしい教授。過去の出来事、ユダヤ人との関わりについて詰問されているシーン…なのかなあ?



物語は数年前に遡ります。
大学教授ジョン・ハルダーは、自分の母親と妻、娘と息子の五人家族。年老いた母は今で言うところの認知症患者で、ハルダーの悩みの種です。
神経症だかヒステリーだかを患っている妻は、家事も家族の面倒もハルダーに任せっきり。ヒステリックにピアノを弾き続けるだけの毎日を送っているようです。娘と息子も決して聞き分けが良いとは言えず、家庭内でのハルダーは孤立無援状態に陥っています。
てんやわんやの状況で孤軍奮闘しているハルダーの姿は悲惨と言えば悲惨なんですが、若干コミカルな雰囲気もあったりします。元の舞台劇はブラックなコメディらしいので、この辺は笑いどころなのかもしれない…台詞を解することが出来れば。
とは言っても大笑いするようなシーンということではなく、苦笑程度なんでしょうけれども。



さて、場面は変わってハルダーが大学で教鞭を取るシーン。
決して学生に人気があるとは言えないらしいハルダー教授の講義、広い教室には空席が目立ちます。いかにもやる気の無さそーな学生相手に淡々と授業を進めていると、突然屋外で騒動が。
一斉に窓際に走り寄る学生達、仕方なく自分も窓の外を見るハルダーの眼に映ったのは、校庭に山積みされた大量の書物でした。
ナチスによる焚書が始まったのです。愕然としながらも平静を装い、何事も無かったかのように授業を再開させるハルダー。ハルダーの気の弱さと事無かれ主義が、伏せられた目線や小さな声で表現されております。
それでですねえ、こうした気弱な態度を見せる時のハルダーの姿が、まるでぷるぷる震えている小動物のように見えてくるんですよ。それってやっぱり、私の目が腐っているからでしょうかねえ? 
常日頃、御年50歳じゃなくて51歳、身長180cmのヴィゴを捉まえて可愛い可愛いとほざいている私ですが、さすがにこんな風な小動物的可愛さをヴィゴに感じたことは無かったんですよね。
そうした種類の可愛さはマチューと、役柄によってはダニエルにお任せのはずなんですが(一体、誰が誰に何をどうお任せするのか?と云った根本的疑問は棚の上にどぞ)。
しかし、このハルダー教授を演じている時のヴィゴは終始一貫、手の平の上でプルプル震えている小動物的な可愛らしさと可憐さを漂わせているんです。
いやはや堪らんぞよ(じゅる)、でございました。
全く以って役者とは凄まじきものです。
あのイースタン・プロミスのニコライを演じた同じ役者とは思えない、真逆のハルダー教授、その表情、声色、立ち居振る舞いの全てが、「いぢめる?」って聞いてくるどっかの漫画のシマリス君みたいなんだよ! ほへら〜(魂が抜け出る音)。
ハシッ!(←抜けかけた魂を捉まえた音) まだまだ導入部の時点で、魂を飛んでかせてどうする。いかん、いかん。
気を取り直して、先に進めましょう。



どうにか授業が終わって学生達は教室を出て行きます。さあ、ここで女の影が登場(笑)。
嫌味なくらいに見事なブロンドを煌かせた女子学生です。何やら意味深な視線をハルダーに向けております。判り易すぎるくらいに判り易い秋波を、ばっしばし送りつけてきます。
ドギマギしながら視線を逸らそうとするハルダー。
…か、可愛い。もちろん、ブロンドではなくハルダーが
観客と同様にブロンドの方もハルダーを可愛いと考えたらしく、研究室だか教授部屋だかに籠っていたハルダーのところに押しかけたブロンド(名前はアンでした)、さっさとハルダーを押し倒します。
ハルダーが押し倒すんじゃありませんよー。遥か年下の美人の女子学生が、ハルダー教授を押し倒すんですよー。神聖なる仕事場で襲われるハルダー教授、いと哀れなり。
はい、ここテストに出るよー、出ませんってば。



ハルダー教授、疲れとストレスが溜まっているようです。どんなに頑張っても家庭はほぼ崩壊状態、心休まる場所ではない。第一次世界大戦における敗戦後の大不況からようやく復興してきたドイツですが、今度はヒトラーが台頭し、ナチス政権下で世情はどうにもキナ臭い。
専門である文学に没頭している時と親友であるモーリス(ジェイソン・アイザック)とビールのジョッキを空けながらナチスの悪口を言うぐらいが、ささやかな日々の楽しみであるハルダー。
その心の隙間に、アンはちゃっかりと入り込みます。
冷やかしながらも心配するモーリスを退け、ハルダーはアンと日々を過ごすようになります。アンを連れてと云うよりアンに連れられてなのかなあ、華やかな場所に出入りするようになるハルダー。
その一方で、母の痴呆は進行し、遂には自殺を図るに至って家庭は壊滅状態。ハルダーは自分の置かれている状況を映し出すかのような、安楽死をテーマとした小説を書き綴ります。
そして、この一篇の小説がハルダーの運命を変えるのです。
「生命の泉」計画と呼ばれる、容姿端麗で知的なアーリア人種の純化と増殖を掲げていたナチスは、一方で「断種法」により精神病者や障害者、ユダヤ人の強制処分を推し進めていました。そうした人々を「遺伝的に穢れている」と決め付けたナチスは、安楽死の制度化を画策していました。
そして、ジョン・ハルダーがごく個人的な体験と視点から書いたはずの小説は、ナチスのプロパガンダ小説として利用されてしまう。
本来のハルダーは差別意識があるわけでもなく、ナチスの優生学思想とは相容れない真っ当で常識的な知識人なのです。しかし、意図せずして乗せられた車から飛び降りるだけの強い意志や精神力を彼は持っていなかった。ナチスに批判的だったはずのハルダーは、いつの間にかナチスの党員(名誉党員?)に祀り上げられてしまいます。

時代の波と社会の趨勢に為す術も無く流されていくハルダー教授の姿、それは哀れであると同時に、非常に恐ろしいものでもありました。
物言えば唇寒し、と云う言葉がありますが、ナチスに支配された社会=全体主義国家は寒いどころの候ではない。うかつな発言は社会的抹殺どころか、本人や家族の生命さえ危ぶまれる事態を招くのです。
いろいろと物騒な事件が多いとは言え、取り敢えずは平和な日本に住んでいる私たち。言論の自由、表現の自由が法律でも社会的にも認められる現代に生きる私たちには、本当の意味では想像できない状況だと思う。
映画やドラマで見る戦中の日本、本や資料で伺い知れるスターリン圧政下のソ連、文化大革命時の中国(未だに本当の意味での表現の自由は無い国ですが、文革の時代はそれどころじゃなかった)、そして北朝鮮、そういった全体主義国家においてどれだけ言論が統制され、個人の命が軽んじられ、個々の抵抗が完膚なきまでに叩き伏せられてきたことか。

安楽死小説がナチスに利用されることにより、ハルダーは特権的立場を得ます。
字幕をきちんと読んでないのでこの辺はちょっと曖昧なんですが、神経症を患っていた妻とは別れたんだか別れさせられたんだかしてしまい、そしてハルダーの妻の座には、若く美しい金髪美女、そう、あの女子学生アンが座るのです。
頭脳優秀、背が高く金髪に青い眼、白い肌を持つ美しき夫婦、正装したハルダーと着飾ったアンのカップルは、ナチスの掲げる「生命の泉計画」をまさに体現しているかのよう。
家事と家族の世話に追いまくられていたハルダーは、今やナチスドイツの寵児の一人となってしまいました。
ハルダーは悪人ではありません。安楽死小説を書いたからと言って、本気で母の死を望んだわけではなく(自殺を図る母を必死で止めている)、悩まされながらも妻子を大切に思っていた。
しかし、知識人とは言ってもごくごく普通の善良な市民でしかなかったハルダーには、ナチスによってお膳立てされた生活と地位に抵抗するだけの強靭な精神力は持ち合わせていなかったのです。



そうこうしているうちに、ユダヤ人への迫害は日を追うごとに激しくなっていきます。ハルダーはモーリスにフランスへの亡命を手助けして欲しいと頼まれます。
親友同士の二人は今や、一方は支配者・迫害者の側に立ち、一方は支配され迫害される者として命の危機に立たされている。怒りと哀しみを滾らせるモーリスと罪悪感に苛まれるハルダーとの食事シーンは、実に切ない。
ハルダーは勇気を奮い起こし、モーリスのためにパリ行きの鉄道切符を買おうとします。ところが間の悪いことに、もしくは見張られていたのか、顔見知りのナチス親衛隊員に見つかってしまいます。
なんとか言い逃れてその場はやり過ごしたものの、切符は入手出来ずじまい。
ハルダーとて、完璧に安全を約束された身の上などではないという現状。自分の立場と親友の命を秤に掛ける訳では無いけれど…。

確かにハルダーはへなちょこです。勇気も無いし、わが身可愛さに保身に走っているとも言える。でもね、実際にそうした立場に立たされた時、人はそれほど立派であり続けられるでしょうか?
私は正直言って、全く自信が無いです。
この辺のくだりを見つつ思い浮かべたのが、ジョージ・オーウェルの小説「1984年」でした。ご存知の方も多いでしょうけれども、全体主義に統治された近未来世界の恐怖を描いた作品です。
物語の後半、主人公のウィンストン・スミスと恋人のジューリアが思想警察に捕まり、拷問を受けるシーン。
「自分じゃない!悪いのは彼だ!拷問を受けるべきは彼だ!」
「悪いのはジューリアだ! 私じゃない!」
愛し合っていたはずの二人は、追い詰められた状況で庇いあうどころか、互いに罪をなすりつけようとする。なんとも恐ろしいシーンですが、悲しいことにこれは人間の一面の真実であるかもしれないと、私は思うのです。

しかし、ハルダーの友を愛する善なる心が消え失せたわけではありませんでした。
偶然の機会からパリ行きの切符を入手したハルダーは、モーリスの自宅へと駆けつけます。
ところが、モーリスは不在でした。ハルダーはドアの隙間から、切符が手に入ったから自分の家に来るようにと記したメモを投げ入れます。
自宅に戻ったハルダーでしたが、その晩、事件は起こります。後に「水晶の夜(クリスタルナハト)」と呼ばれた、ナチスによるユダヤ人商店の徹底破壊の夜。
事態を知ったハルダーは、モーリスへの伝言を妻のアンに言付けると、騒乱の街に飛び出していきます。打ち壊され荒れ果てたユダヤ人街、トラックに押し込められ収容所へと連れ去られる人々の姿に、呆然とするハルダー。
自己保身のため、ひたすらに眼を瞑って見ないようにしていたおぞましい現実が、ハルダーの目前にこれでもかとばかりに突きつけられるのです。
モーリスの名を呼びながら街を彷徨うハルダーでしたが、SS(ナチス親衛隊)の制服の威力を嵩に、ユダヤ人を連れ去ろうとするトラックを押し留めます。
荷台にぎっしりと押し込められたユダヤ人たち。ハルダーに言われた通り、担当の軍人がモーリスの姓名を呼ぶと、一人の男が手を上げます。
それはモーリスではない、同じ名前と云うだけの明らかな別人でした。しかしハルダーには、自分が捜しているのはその男ではないとは言えません。「その男ではない」と言ってしまえば、訳も判らず藁にも縋る思いで名乗りを上げた、そのモーリスと同じ名前を持つ男は収容所へと連行されてしまうのですから。
解き放たれたその男は、脱兎の如く逃げていきます。感情の消えた表情でハルダーを見つめるユダヤ人たち。彼らを押し込めたトラックは収容所へと走り去ります。破壊され尽くした街の中で、立ち竦むハルダー。

そして物語は、数年後、軍部に呼び出されるシーンへと戻ります。
偉いさんとのやりとりはよく判らなかったのですが、とにかく用件はモーリスに絡んだことらしい。叱責されるのかと思いきや、資料室のような部署に連れて行かれ、ユダヤ人関連の資料を見ることを許可されるハルダー。ヒトラー総統の覚えよろしき御用学者ってことなんでしょうかしらねえ?
モーリスの消息らしきものをようやく掴んだハルダーは、収容所へ出向くことになります。
軍服を着て迎えの車に乗り込んだハルダーは、見送りに出たアンに「もう、君の元へは戻らない」と云った類の言葉を言ったような…済みません、また後日、ちゃんと検証します。
半分以上想像なんですが、あの晩、モーリスはハルダーの自宅を訪ねてきたのではないかと。ハルダーから言付けられていたにも関わらず、アンはモーリスに伝言を伝えなかったのではないかと。それどころか、もしかするとアンがモーリスをナチスに売ったのではないかと。
字幕も読まずに何故そう考えたかと云うと、このシーンでのアンに対するハルダーの表情が凍りついたように冷たいものだったから。この物語を通じてほとんど唯一と云っていいくらい、酷薄な表情を顔に浮かべていたのですよ。
そして、終始一貫、自信満々だったはずのアンは、走り去る車を見つめ呆然と立ち尽くしている。…私の推測が当たらずと言えども遠からじなのではないかと。

ユダヤ人収容所へと到着したハルダー。
想像をはるかに超える劣悪な環境に愕然としながらも、ハルダーは収容所長にモーリスの名を告げます。ところが、名前だけで個人を特定させることは難しいらしい。なぜなら、ここに押し込められたユダヤ人たちには、名前は既に存在しないから。彼らは全て番号で呼ばれ、番号で管理されているのです。
名前も無く、もちろん人権なぞ認められず、ろくな食事も与えられないまま強制労働に駆りだされ、体力の無いものからバタバタと倒れ死んでいく、収容所の現実。
モーリスの姿を求めて収容所の中を彷徨うハルダーの姿は、まるで悪夢の中でもがいているかのようです。
かつてハルダーは家族を愛し、友を愛し、文学と芸術を愛する善良なる一市民でした。しかし、保身ゆえに何も見えない聞こえないふりをし続けたことは、実際にはナチスに加担したことと同義だったのです。
直接的に手を下したことは無くとも、SSの制服に身を包んだハルダーは殺戮者の一味以外の何者でも無い。
ここに至ってハルダーは自分が一体何に加担してしまったか、いや、眼を瞑って何もせずにいたことが如何に悪であったのかということに気付かされ、打ちのめされます。
絶望するハルダーの耳に音楽が聞こえてきます。収容所の中でユダヤ人たちが奏でさせられている音楽は、場所に全く似つかわしくないその曲は、かつてハルダーの頭の中で鳴り響いていた音楽と同じ優雅なクラシック音楽です。
それはもしかすると、ハルダーの中の善き心を象徴するものだったのかもしれません。


…ぜーはー、ぜーはー、長いよお、しんどいよお。たらーっ ここまで読んでくださった方も、まことにお疲れ様でした。
鑑賞済みの方が少ないであろうことを前提に、ストーリー解説と感想を一緒くたに書いてしまったので、いつも以上にむやみに長く、従って読みにくくなっちゃっててすみません。
先にも書いた通り、とんでもない大勘違い大会になっている可能性も高いのですが、志だけは買ってやっていただけると幸い。
少し余裕が出来たら、ちゃんと字幕検証もしますので。何時になったら余裕が出来るかは神のみぞ知る、ですが。

最後にもう一つ、いや、二つばかり追加。
個人的に非常に興味深かったのが、ヴィゴ演じるところのハルダーに、ナチスの制服が見事なまでに似合っていなかったこと でした。
鑑賞前は、さぞや似合って麗しいことだろうと楽しみに思っていたのですよ。
ナチスのしでかした様々な悪行が決して許されないものであることは重々承知ですが、ナチスの制服、その中でもSSの制服が非常に美的であることは認めざるを得ないですしね。
スタイルが良く立ち姿の美しいヴィゴに軍服が似合うのは「GIジェーン」でも立証済みだし、この映画の中では金髪碧眼の典型的ドイツ人役だし、そしたら似合わない訳が無いよね!…と考えてたら、とんでもなかった。
まあ、似合わないったら、とことん似合わない。
前述したスーツ姿や、大学で講義をしている時のクラシックなガウン姿はとてつもなく似合っていてうっとりものなのに、SSの制服を着たハルダーときたら、無理矢理仮装をさせられたようにしか見えないのです。
これは、物語中のハルダーの心理が表れているからだと思う。単に着慣れないからというのではなく、表立っては出せないナチスへの反感や怯え、本当はこんな制服なぞ着たくない!と云う感情ゆえに、あれほど似合わなく見えるのではないかと。
ヴィゴのインタビューで「ナチスの制服を着た自分を鏡で見て、とてつもない違和感を持った」という類の発言がありましたが、納得至極です。物語中のハルダーもだけど、ヴィゴはそれ以上にナチスの制服なんて着たくないと思っていたことでしょうし。
このあたりは、本来はドイツ出身俳優が演じるはずだったドイツ軍人役をクランクイン寸前に「自分がやる」って言い出して奪い取って張り切って演技して挙句に大顰蹙を買った、どっかの誰かさんとはえらい違いですなあ。
↑↑↑ 個人攻撃&悪口なので、隠しました。だったら書かなきゃいいんだけど、書きたかったんだもん!

もう一つ。この映画はアメリカではさっぱり当たらなかったとのことですが、さもありなん。
主人公はハリウッド的ヒーロー像とは真逆の気弱小動物プルプル君だし、最後まで何のカタルシスも得られぬまま、絶望の淵に佇む人々(収容所のユダヤ人とハルダー教授)の姿を映して映画が終わるんだもん、アメリカ人にウケる訳が無い。
この映画をアメリカでウケるハリウッド映画として作るなら、ハルダーはナチスに抵抗して地下活動のリーダーになるとか、友を庇って華々しく散るとかしなきゃだよね。それじゃあ、違う映画になってしまうではないか!
でも、逆にヨーロッパでは評価されたというのも判る気がします。
日本だったらどうだろ?…一般のシネコンとかで上映したら、まず当たらないだろうなあ。映画評論家とか玄人筋にはウケそうなので、都心部の単館のみでの上映とかならそこそこ話題になるかも。
私? うーん、ちょっと癖になるかも。映画のほぼ全編に亘り息が詰まるような閉塞感が漂っていて、観ていて非常に辛いんだけどまた観返したくなる、そんな感じの作品でした。
さあて…字幕検証せねば。

ヴィゴ! お誕生日おめでとう!!

    2009.10.20 Tuesday| 23:40 |
ヴィゴ! 51回目のお誕生日、おめでとうー!
拍手 祝 ニコニコ 拍手 祝 ニコニコ 拍手 祝 ニコニコ 拍手 祝 ニコニコ 拍手 祝 ニコニコ 拍手 祝 ニコニコ

遅れてきたヴィゴファンである私。それでも、このブログにおいてヴィゴのお誕生日を祝うのは既に三回目となります。なんか感慨深いなあ。
49回目のお誕生日、50回目のお誕生日に続いてのおめでたやの本日。ヴィゴは多分、ロンドン映画祭兼「The Road」ロンドン・プレミアで英国滞在中かと思われます。
多忙な仕事の真っ只中のお誕生日になってしまったかと思いますが、それでもきっと大切な家族や友人、スタッフや関係者に囲まれて素晴らしい一日を過ごしているんじゃないかと。

このところ出回っている画像を見ても、とても51歳になっただなんて思えない脅威の若さ。
以前にも書いたような気がするけど、ヴィゴの精神と心の瑞々しさこそが肉体の若々しさに繋がっているように思います。

いくつもの素晴らしい映画と珠玉の演技、そして様々な魅力的なパフォーマンスに心からの感謝を捧げたい。そして、51歳になったヴィゴの一年が、より一層素晴らしく価値あるものとならんことを祈ります。

世界中のファンから、さぞや沢山のお祝いのメッセージが贈られていることでしょう。
アメリカおよびヨーロッパから遠く離れた東の果ての日本、そしてそのまた隅っこで細々と運営しているこのファンブログも、その末席に加わらせてください。
ヴィゴ・モーテンセン、51歳のお誕生日に、気持ちばかりのそして心からのおめでとうを贈らせていただきます。

ヴィゴのお誕生日記念と云うことで、到着したばかりの「Good」を鑑賞しました。
感想はまた明日にでも。

遂に「The Road」がお目見え!

    2009.09.09 Wednesday| 23:50 |
このところヴィゴをあまり取り上げていなかった我がブログ、管理人のヴィゴ熱も少し収束気味?…なーんて思った方がいらしたとしたら、とんでもありませんぞ!
相変わらず轟々と燃え盛っております!!(きっぱり)
燃え盛りすぎて、あっちこっちに飛び火しちゃって鎮火の目処が立たないんですよ(←あくまでも比喩です。火災被害に遭われた方を揶揄する意図は100%ございませんので)。まったくもって困ったもんだ。
それでもって、ヴィゴファンおよび洋画ファンの皆さまにはもうとっくのとうにチェック済みの情報かと思いますが、いよいよ「The Road」が動き出しましたねえ。
先週末にはヴェネチア国際映画祭でワールドプレミアが行われ、画像、動画、記事が追いかけきれないほど大量にネットに上がってきています。
映画評は概ね高評価のようで、先ずは一安心。
何せ、本来なら昨年11月に公開予定だった映画ですからねえ。編集が遅れてるだの制作会社の思惑があるだの、噂はいろいろありましたが、はっきりしたことは全然判らないし。
原作は言うまでも無く名作、そして主演がヴィゴ、共演がヴィゴ絶賛の天才子役コディ・スミット・マクフィー、この三拍子が揃ったんだから、素晴らしい作品にならないでどうする!とは思うものの、百万が一、間違った化学反応が起きちゃったりして…と云う心配もついつい抱いてしまう一年近くの沈黙でした。
いい役者が揃って、彼らが演技をどれだけ頑張っても、編集によってどうにもこうにもな作品になってしまうことだって、世の中にはままあるからねえ。
しかし、そんな危惧は杞憂でしか無かったようです。ヴィゴはもちろんのこと、コディ君の演技も絶賛されているようですし、原作の持っていた作品世界を見事に映像化したということで、映画自体の評価も高いようです。
日本の配給会社さん、お願いだから、買い付けてくださいー! もう、土下座する勢いでお願いしちゃうよ!!(でも、宣伝に、虎〇竜を使ったり、高橋某を引っ張り出すのだけは絶対止めてね)

英語が苦手なわたくし、海外ニュースを掬い上げるのはなかなか困難が伴うんですが、こと、ヴィゴのことになると結構頑張っちゃったりする。
「好きこそものの上手なれ」ってホントだねえ(しみじみ)。
でもって、拾った映像中、お気に入りを何枚かご紹介しますね。



悪戯っこヴィゴとコディ君のツーショット。現地入りした日の画像です。
コディ君はキメキメなのに、ヴィゴは相変わらずのTシャツ姿。ま、ヴィゴらしくて良いけど。
撮影時は11歳だったコディ君、13歳になったとか。「The Road」のスチール写真ではまだ子供子供してたけど、もうすっかり「少年」って感じですね。
かなり大人びたクールな子と云う噂ですが、一所懸命おしゃれしてるところなんて、なかなか初々しくてカワユイではないか。
このくらいアップの画像だと、少女のようにも見えます。色が白いし、唇ピンク色だし。
しかし、ヴィゴは何やってるんでしょうね? 気に入ってるのか、他のところでもやってました。コディ君もやり返してたけど。
日本人だと「鬼の角」って思うところだけど、欧米だと何だろ。ゴブリンとか悪魔とか? それとも全然意味が違って、幸運のおまじないとか?



こちらは、レッドカーペットでの仲良し親子ぶりです。手なんて繋いじゃって、微笑ましいねえ。



コディ君を見る時のヴィゴの視線の優しさが好きだなあ。ご子息の子供の頃なんて、思い出したりしちゃってるのかしら。「ロード・オブ・ザ・リング」の撮影時、ヘンリー君ってこのくらいの年齢だったよね、確か。
動画もかなり出回ってますけど、動画だとより一層、二人の仲良しぶりと、ヴィゴがコディ君に対してすごく気配りしているのが判ります。



でも、こんなこともしちゃいます。監督も一緒になって、いたいけな子供に何やってんだか。(笑)
「ほら、落としちゃうぞー」
「スーツ濡れちゃうぞー、髪型崩れるぞー」
「ヤメロー、ヤメロー!」…ってとこでしょうか。


ヴェネチア映画祭は日本映画にも結構縁が深い映画祭と言うこともあるのか、日本でもニュースになっておりました。

シネマトゥディ:ヴィゴ・モーテンセン、ご近所スタイルで会見に【第66回ヴェネチア国際映画祭】
チケットぴあ:世界的ベストセラー映画化で絶賛されたヴィゴ・モーテンセン【ヴェネチア映画祭レポート】

ぴあの記事はなかなか内容が良くて、にんまり。
シネマトゥディは「裸体」だの「ご近所スタイル」だの、取り上げ方が「映画秘宝」みたいだよ…。

「オーシャン・オブ・ファイヤー」雑感〜汚れるほどに色っぽい

    2009.07.17 Friday| 01:01 |
今夜、つい先ほどまで、NHK-BSにてヴィゴ主演作「オーシャン・オブ・ファイヤー」を放送しておりました。
えっ、私? もちろん観たともさ。もちろんDVDは持っているんだけど、それでもテレビ放映があるとついつい、と云うか、いそいそと観てしまうのは不思議な心理だよねえ。
先日放送された「キング・アーサー」も、もちろん観てたりする。こちらももちろん、DVDは手元にあり。
「キング・アーサー」放送の際は、光彩陸離のrinzuさん(いつもお世話様です!)もやはりご覧になったと記事に書かれていて、やっぱり皆そうなんだね、ファン心理って何とも愛おしくて切ないよね(自分で云うな)。などなど、感じ入ったような次第。

オーシャン・オブ・ファイヤー [DVD]
オーシャン・オブ・ファイヤー [DVD]

「オーシャン・オブ・ファイヤー」の感想は以前に記事にしているので、本日は、雑感諸々を書き留めておきます。

雑感その1.ヒダルゴが可愛い件。
いや、もちろん、ヴィゴも可愛いんですが(異論は受け付けません!)、ヒダルゴはやっぱり可愛い。
絶対、人間の言葉が判っているに違いない!と思わせる絶妙な表情が何とも云えない。撮影後にヴィゴが別れ難くて、買い取っちゃったという気持ちも判るってなもんです。
それでもってついつい、ヒダルゴにアテレコを付けてしまうお馬鹿なわたくし。

例:
「いい加減にしろよ! フランクってば。ほら、戻るよ!」←ウェスタンショーのシーン。
「えー、ナンパだめなのお?」←血が混じったら困るので、交配はさせないと脅されるシーン。
「ったく、フランクって、押しの強い女に弱いんだよな」←フランクがレディ・アンにお茶に誘われるシーン。
「やだ。まだ走る」←ジャジーラ探索から戻り、フランクが弱気になっているシーン。
「オレ、走る気満々だもんね! 早くしろよ、相棒!」←最終スタートのシーン。

…すみません、阿呆で。
観てない方には訳が判らないかと思いますが、こんな感じにお馬さんが喋って…は、いないけど、演技しておりますので、是非是非一度ご覧あれ。


雑感その2.それでもってやはりヴィゴが可愛い。
ウェスタンショーで身過ぎ世過ぎを立てている呑んだくれフランクの、ダメダメ感溢れた風情が何とも色っぽい。…ってだけじゃ、物足りないなあ。触れなば落ちん? じゃ、あまりにもナニかしら。微妙にニュアンスが違う?
以前の記事でも書いたけど、危うく去勢されそうになって必死で抵抗するシーンとか、砂漠で干からびかけてフラフラしてるシーンとか、落とし穴に落とされて呆然としているシーンとか、どうにもこうにもエロ可愛い のは何としたことか!
アラゴルン役で世界中に知らしめた「ヴィゴは汚れるほどに色っぽい」が、ここでも証明されちゃった、と云うことだな、うん。


雑感その3.面白いし興味深いし感動するし良い映画じゃないか!
あらためてつくづくそう思ったよ。と云うのも、以前に、この映画は興行的には当たらなかったって聞いたものだから。
前に書いた記事でも触れたけど、物語は単なるヒーロー物に終わらないだけの深みがある。映像も良い。ヴィゴとヒダルゴはもちろん素晴らしい×10倍だし、その他の出演俳優も役柄のイメージにぴったりだし。
全編にヴィゴが出ずっぱりなのでヴィゴファンに取って美味し過ぎるという欲目は差し引いても、十二分に良作だと思うんだけど。まあ、良作=ヒット作でないのは、珍しくも何ともないことではありますが。
ハリウッド映画としてはストーリーも映像もより派手で、フランクはもっと単純明快なヒーローで、美しいヒロインとの恋物語や濃厚なラブシーンがあって、といった何かと判りやすい仕上がりにしたほうがウケるってことなんかしらねえ。
…でも、そんなんだったら、ヴィゴが演じるという意味合いが薄れちゃいそうだし、そもそも、ヴィゴが出演を断りそうだな。うん。


雑感その4.NHK-BSの編成担当はもしかしてヴィゴのファン?
映画自体の感想じゃ、ないんだけど。どうしてそんな風に思ったかと云うと、明日7/17は「アラトリステ」のDVD発売日なんだよね。その前日に「オーシャン・オブ・ファイヤー」が放送って、なんてグッドタイミング!
これだけではただの偶然ってなもんだけど、先日「アパルーサの決闘」DVDが発売された直後のこと。NHK-BSで、西部劇特集を放送していたのですよ。西部劇自体にはほとんど興味が無かった私なのに、アパルーサを観た直後なだけに興味を惹かれ、ついつい「続・夕陽のガンマン」とか観ちゃった。
うーん、ヴィゴのファンって云うよりも、ヴィゴにコアなファンが付いているってことを知ってる人ってことかなあ。それにしてもタイミングが良過ぎるのは、やっぱりヴィゴに興味があるからじゃないかしらと勝手に決め付けてみたりして。てへ★


なんだか、取りとめも無い記事になってしまいましたが、今夜はこの辺で。
以前に書いた「オーシャン・オブ・ファイヤー」の感想にご興味のある方は、こちらからどうぞ。↓

大自然と馬と人間と「オーシャン・オブ・ファイヤー」

二人の男の熱い友情〜「アパルーサの決闘」その3

    2009.06.30 Tuesday| 02:11 |


例によって連載となってしまった、「アパルーサの決闘」の感想記事。
そろそろ完結させねばと思いつつ、二度目の鑑賞は吹き替えで観てみたよ。ヒッチ=ヴィゴの吹き替えを担当しているのは加藤亮夫と云う声優さん。
私は声優にとんと疎くて、この方がこれまでにどんな仕事をなさっているのか全く存じ上げないのだけれど…まことに申し訳無いんですが、ダメだ、合わない。声質も話し方も、ヒッチのイメージともヴィゴ本人とも掛け離れすぎ。
ヴィゴに対しての私の思いいれが深い、と云うか深過ぎる所為もあって、あの顔からこの声が出てこう話すっていうのにどうにも違和感がある。吹き替えで観る時は、最初こそ違和感があっても観ている内に多少は馴れ馴染んでくるものなんだけど、この方の声は最後まで全然ハマれませんでした。
それと、好みの問題もあるんだろうけど、演技過剰なタイプなんだよねこの声優さん。声優は声でのみ演技表現する関係上、どうしてもオーバーになりがちなのは判るんだけど、ヴィゴがそういう過剰な演技をするタイプじゃないのでね、余計に違和感。
私が耳にした限りでは、ヴィゴの吹き替えの中でも一番ってくらいに合ってない気がしました…。この声優さんのファンの方がもしいらしてたら、心からゴメンなさい。このブログはヴィゴ至上主義なので、ご容赦をば。
それと、これは本人には責任が無くてキャスティングの問題なんだけど、コール=エドの吹き替えを担当した声優さんと声色が近いように感じた。故に二人が交互に話すシーンだとメリハリが無くて判りづらく、尚のこと戸惑ってしまうんだよね。
だったら吹き替えで観るな! 観といて文句つけんな!ってなもんですが、吹き替えで観ることで俳優の演技や表情に集中出来るし、字幕よりも会話の情報量がダントツに多くなるしというメリットがあるし。なので、頑張って(我慢してって書くのはあまりにも失礼だよねえ…って、書いてるじゃん)一度は吹き替えで観るようにしているのですよ。
でもでも今回は正直辛かった…。途中で何度、字幕に切り替えようと思ったことか。

しかーし! それでもやはり頑張った甲斐はあったよ。字幕を意識せず、エドとヴィゴの演技に集中して観られたのは有意義でございました。やっぱりこの二人の演技は素晴らしい。本当に凄い。
大げさな身振り手振りによる過剰な演技ではなく、ちょっとした視線の送り方、眉の上げ下げ、口元に浮かべた小さな笑み、身のこなしや姿勢一つで、その時々の感情を微妙繊細に表現しているのですよ。
例えば、眼と眼で会話するって言葉や文字では簡単に言うけど、実際にそのようにしている様子を演技で見せるのって非常に難しいと思うのね。いかにもな感じで視線を合わせて頷きあったりしたら、わざとらしいだけだし。でも、エドとヴィゴではそうはならない。
チラッと互いを見やる、ゆっくりと目線を流す、見詰め合う、それだけで二人が判りあっているのが十分に伝わってくる。決して言葉巧みとも口数が多いとも云えない不器用で寡黙な西部の男たちが眼と眼で語り合い、互いを理解しあっているさまは、身震いするほど格好良いのです。
この感想記事の初回から書いているけど、コールとヒッチの男同士の熱い友情がね、本当に熱くってねえ…(うっとり)。予想通りではあったけど、期待以上でございましたよ、いやホントに。
コールはヒッチにとにかく無条件の信頼を抱いてます。コールにとってヒッチは一緒に居るのが当たり前過ぎて、彼が自分の側から去っていくことなんて考えもしない。それどころかもしかして永遠に傍らに居ると思い込んでいるんじゃないかと云うほどに、その信頼は揺ぎ無い。
保安官と保安官助手と言う職務上はもちろんのこと、二人の個人的関係性においてもコールの立場が上、と云うかお兄さん的な雰囲気ではあるんだけど、一方でコールがヒッチに頼りきっている部分も随所にあって。
ヒッチは士官学校出身でどうやらそこそこ学もあるらしく、言葉や物事についての解釈などをヒッチに質問したり判断を仰ぐことにコールは何の疑問もためらいも持っていない様子。
ヒッチはヒッチで、コールのガンマンとしての腕や胆力、保安官としての経験、それと持ち前の一本気な気性に対して強い敬慕の念を抱いているように思う。実は短気で感情的だったりする欠点も十分に判った上で、ヒッチはコールという男を認め、そして惹きつけられているのではないかしら。



コールが無茶をしたり暴走すると、ヒッチはしっかと心得てフォローに回る。だからと云ってそうした行為をひけらかす訳でも感謝を求めるでも無い。コールだって実のところはちゃんと判っていて、そうしたヒッチの行動に感謝してるし、それが故のあの無条件の信頼なんだよね。
裏切りがばれて焦ったアリーが、ヒッチが自分を口説いたとコールに言い付け口をした時だって、コールのヒッチへの信頼は一瞬たりとも揺るがない。アリーが「私よりヒッチを信用するのね!」と喚いた時のコールの返答の素早さといったら、観ていて実にすっきり気持ちが良かった。
「当たり前だ、ヒッチはそんなことはしない」
つまり、コールは『ヒッチが自分を裏切ることなど絶対に無い』と何の疑いも無く信じているし、そしてそれは二人の間ではまさに真実以外の何物でも無いのです。

コールより女馴れしているらしいヒッチは、アリーが淑やかなレディなんかじゃないことにとっとと気付くんだけど、それをコールに告げることはしない。
アリーがあまりにもあまりなので、観ているこちらとしてはコールにそれとなく忠告してもいいんじゃない?と思ったりもするんだけど、何故かヒッチはそうしようとはしない。
後半、コールがアリーの裏切りを知ってからようやく、アリーのもろもろの行状をコールに告げたけど、それでもあからさまにアリーを悪く言ったりはしないんだよね。奇妙なほどに気遣った表現をする。それは多分、それでもコールがアリーに心を残していることをヒッチは知っているからだと思う。
コールがアリーに恋してしまった時にもヒッチはかなり微妙な表情を顔に浮かべていたけれど、二人がなるようになったことを知った(と言うか目撃した)時のヒッチは実にもの悲しい風情で、いっそ寂しそうで。そんなんだったら邪魔して仲を裂いちゃえば?と、言いたくなってしまうほどだったんだけれども。
思うにヒッチは、アリーがどんな女であってもコールが彼女を望む限りそれを叶えてやりたいと思ってたんじゃないかなあ。
そして、それが故のあのラストシーンに繋がる訳です。
洞察力の無い私ってば、初見時はすっかり騙されました。てっきり、ヒッチが本気でこの町では暮らせない、コールが残るって言うならそれは仕方ないけど自分はもうここには居られないと考え町を去ろうとしているんだと思い込んでいたよ。ところがどっこい、そこにはヒッチの深謀遠慮があったんですねえ。

町を去ると告げる→保安官助手のバッジを外す→ブラッグに喧嘩を吹っかける→ヒッチの売った喧嘩をブラッグが買う→アパルーサの決闘!

そうか、そうだったのか。題名はそこに掛かるのか。と言うか、主人公って実はヒッチだったん?!
金力に飽かせて町を牛耳ろうとし、ほぼ成功しかけていたブラッグを「決闘」によってヒッチが殺す。それによってコールの保安官としての立場を守り、コールとアリーがアパルーサの町で暮らし続けることが出来るように図る。
…ヒッチってなんていい奴なんだろう(涙)。コールのことをそこまで大切に思っていたんだね。
ブラッグとの決闘では自分が死んでしまう可能性だって十分あったのに、敢えて自ら仕掛けてそれに臨んだヒッチ…自分の身を犠牲にしてもコールの幸福を願ったってことだよね。
そのヒッチの心情が実に切ない、愛おしい。
アメリカの批評家だか記者だかがこの映画を評して「エドとヴィゴとのラブストーリー」と言ったとか言わないとかっていう話を小耳に挟みましたが、確かに当たらずとも遠からじ、いや、大当たりか?



西部劇の割にはドンパチシーンの割合は少なく、むしろ人間ドラマに主眼を置いているため地味な印象になってしまっているのは確かです。全体に淡々としていて手に汗握るっていうシーンは少ないし、多少ハラハラするシーンだって、割とあっさり解決しちゃうし。
いや、判るんですよ。例えば銃撃シーン、せーの!でバンッ!みたいな早撃ち勝負がこの時代の戦いの基本だと言うならば、日本の時代劇のような丁々発止の長い勝負にならないのは当然。
先住民との争いのシーンだって、昔の西部劇のような極端な表現(=残酷で野蛮なインディアン像)はまさか出来ないしねえ。そんなん、ヴィゴが絶対に許さないだろうし。
21世紀の西部劇として、西部開拓時代のリアルな人間の姿を描きたかったのかなとも思うし、そういう意味では非常にリアリティのある展開なんだけど、もうちょっと物語的に盛り上がるシーンがあっても良かったんじゃないかな。

つくづく勿体無いなと思ったのは、敵役ブラッグを演じたジェレミー・アイアンズの扱い。
ブラッグの初登場シーンから暫くの間、ジェレミー・アイアンズを起用した意図が全然伝わってこなかったのです。牧場運営を名目にゴロツキの手下を大勢雇って悪行三昧、より大きな悪事をしでかそうと画策中の大悪党…にあんまり見えない。粗野で貧相なせいぜい小悪党程度にしか見えない。
正直、何でこの役柄にジェレミー・アイアンズをキャスティングしたのか判らんとまで思いましたよ。
ところが、逮捕される→裁判で有罪→荒野の逃走といった一連のすったもんだの挙句、何がどうしたのか大金を掴んだブラッグが再びアパルーサの町に舞い戻ってきて以降、雰囲気が一転するのです。
上質な衣服を身にまとい、言葉遣いから物腰まで変ってしまったブラッグが再びコールたちの前に現れたその理由は、コール曰く「プライド」。
要するに、コールとヒッチに虚仮にされたことに対する復讐を果たしたいのでしょう。しかも銃や暴力を使ってのものではなく、金力と権力を使って。お金の力で町の有力者を懐柔し、次には町を牛耳り、コールからアリーを奪い、コールとヒッチの二人から仕事と誇りと名誉と何もかもを取り上げて町を追い出すのがブラッグの目的。
こうなってからのブラッグ=ジェレミー・アイアンズは、大げさに言えば水を得た魚でしたねえ。こういう役どころだと、実に似合うぞジェレミー・アイアンズ。
ただ、このあたりの展開が大雑把で慌しいのが惜しい。
ブラッグがどういった手段で大金を得たかは物語の中で推測として語られるだけなんですが、これはまあいいとしても、ブラッグが町の有力者を懐柔する過程がほとんど描かれていないのです。
あっと云う間に町で唯一のホテルを買い取り、人々の信頼を得て有力者面するようになっちゃうんだよね。何だかあれよあれよ過ぎて、観ていて置いてきぼりになった気分。
アパルーサにおけるブラッグの存在感がドンドン強まり、コールとヒッチが真綿で締められるが如くじわじわと追い詰められる過程がもっと描かれていたら、ここでこそ本当にハラハラドキドキしたし、ヒッチの決断とラストシーンがもっと生きたはず。
このくだりを深くじっくりと描いたら、「アパルーサの決闘」は今の時代の西部劇としてより高い評価を得たんじゃないか、一般受けもしやすかったんじゃないかって非常に残念に思った次第。

それで、です。勿体無いなあ残念だなあって考えつつ、特典映像の未公開シーンを観たわたくし。
…あるじゃん、ブラッグの存在感が高まっていくシーン。未公開映像のラストを飾る(?)、タウンホールミーティングのシーンです。
どういう手段を使ったのか恩赦を得て町に戻ってきたブラッグが、町の人々の前で滔々と演説するのですよ。

「以前の自分は確かに悪人で、今はそれを心の底から後悔している」
「自分は生まれ変わった」
「生まれ変わった自分はアパルーサのため、町の人々の幸福のために尽くしたい」

ブラッグがホテルを買い取ったことも発表され万雷の拍手が巻き起こり、満面の笑みを浮かべる町の有力者たち。そして、コールとヒッチはブラッグにしてやられたことにはっきりと気付くのです。
どうしてこのシーン、カットしちゃったのかあなあ、エド(泣)。
ダメだよ、ここ絶対にカットしちゃいけないシーンじゃないか。ここを本編に入れたからって、せいぜい5分かそこらだよ。嗚呼、なんて勿体無い。
せっかく撮影したシーンをカットするのって、監督にとっては苦渋の決断だと思うのです。この作品における未公開シーンは他にも勿体無いと思うシーンがあったし、カットされたことで登場シーンが丸々無くなった俳優さんもいた。
映画を一つの作品として仕上げる上では、物語の流れやバランスはもちろん、尺も考えなきゃいけないのは判るのよ。昨今、「長い映画は嫌われる」らしいので。
でも、長くなろうがなんだろうが絶対に必要でカットしてはいけないシーンはある。そして、このタウンホールミーティングは絶対にカットしちゃいけないほうのシーンだったと私は断言したい。
エド・ハリスともあろう人が何ゆえ?と悩みまして私なりに考えたその結論。
多少穿ち過ぎですが、このシーンを残すことで今作品におけるブラッグ=ジェレミー・アイアンズの存在感がぐっと大きくなると思えるので、もしかするとエドはそれを避けたかったのかもしれないなと。
ラストシーンでのヒッチの決断の見事さ、あの強い想いをより強調するため、ブラッグを印象付けてしまうシーンを敢えて切り捨てた…とか? すみません、ヴィゴ至上主義ゆえのほとんど妄想です。ハイ。
この映画、エドと製作のロバート・ノットによる音声解説付きなんですね。本日現在、それをまだ聞いてないのです。音声解説を聞けばこのシーンをカットしたことの理由、もしくはそのヒントがあるかも。あるといいなあ。

持ち上げたりくさしたり、行ったり来たりで忙しい映画レビューでしたが、決してつまらない映画ではありません。
男がどうにもこうにも男臭かった時代の、熱い魂を持った男たちの篤い友情が描かれている映画。噛み締めるほどに味わいのある映画だと思う。
実際、初見の際よりも、二度目のほうが全然面白く観れたしね。
これから観る場合は、本編を観たらその直後に未公開映像、中でもタウンホールミーティングをすぐさま観るべし。
私は次回観る時は、本編を途中で止めてタウンホールミーティンを観て、そして本編に戻るようにしようかしら、などと目論んでおります。


おまけの余談。
昨年9月、一部のヴィゴファンの脳みそをチュドーンッ!とばかりに吹っ飛ばした画像を覚えておいででしょうか?
そう、フランスのドーヴィル映画祭でのこの画像です。



この画像について当時のわたくし、仲良しなんだねえ、仲良きことは美しいねえ、お兄ちゃんに甘える末っ子みたいだねえ〜などとほざいておりましたが…ちゃうやん。
いや、仲良しは仲良しなんだと思うんだけど、そうじゃなかったら、いくらヴィゴでもあそこまで引っ付くまいとは思うんだけど、要するに映画の中のワンシーンを再現したものだったんですねえ。
本編を観た方はもうお判りかと思うけど、コールが町の住民を殴るシーンがある。彼らが何か悪さをしたということではなく、単にコールの八つ当たり。慌てたヒッチがコールを羽交い絞めにし、必死で止めようとするシーン。
前後の状況はもちろん全く違うけど、後ろ抱きで抱き締めてるようなポーズは、そのまんまだよ!
そっかー、そうだったのか。ヴィゴのあの悪戯っぽい笑顔とエドの照れた表情には実はそう云う理由があったのね。
もう、ヴィゴってば。本当に悪戯好きなんだねえ。

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